赤毛のアンと世界一美しい島

~ここにしかないプリンス・エドワード島に出会う~
村岡花子と赤毛のアン

村岡花子― 「家族と本」を愛し抜いた人
=美枝・恵理姉妹が語る祖母への思い=

僕は東京・大森で村岡姉妹が主宰する「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」で、その「みえちゃんへ」を見せてもらった。たしかに物語も絵本もみんな「みえちゃんへ」だった。

だけど僕はここで、もう1つ別の名前にも出会うことになったんだ。

「愛するみどりへ」

娘であり、姉妹の母であるみどりさんにあてた村岡花子さんのメッセージ。

大切な人に本を贈る時、必ず何かメッセージを添えていた村岡花子さん。そこには、この本を読んでほしい、こんなことを感じてほしい、この本の登場人物のような人になってほしい―そんな願いが込められている。

「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」ではこんな言葉も目にすることができた。

「みどりへ 道雄兄ちゃんもあなたも 喜んで聞いたこの物語が 又新しい形で出版されました」

これは「王子と乞食」に記された村岡花子さんのメッセージだ。「道雄兄ちゃん」は、6歳の誕生日を目前にこの世を去った花子さんの長男。姉妹の母であるみどりさんのお兄さんだ。

こんなメッセージが添えられた本をそう簡単に捨てられるはずがない。だからその本とメッセージは長く長く生き続ける。

本と直筆メッセージは、母として、祖母として、子や孫に対する愛情や願いを伝え続ける。時にその愛情は、孫の強烈なジェラシーをも生み出し、また新しい本を世に送り出すきっかけにもなったんだ。

親から子へ「縦」につながっていく本

村岡美枝 祖母はいつもそうなの、母にも自分の夫にも、新しい本を出すたびに「愛するみどりへ」とか、「愛する儆三様へ」とか書くんです。日本人って照れくさいじゃないですか、そういうの。でも祖母はごく自然に書くんです。女学校時代、カナダ人宣教師の先生方から受け継いだ習慣かしらね。

村岡恵理 本を贈られるってことは、ものすごく長い時間をかけて愛が染み渡っていく感じがするんです。祖母の翻訳、祖母が書いた本の全てが、私たちに贈られた本だと思ってる。

祖母の書斎の本の背表紙を見ているだけで、こういう女の人になってね、というメッセージが伝わってくるんです。

よく考えてみると、実は祖母って何でも訳していたわけじゃなく、そういう作品しか訳してないんですよね。繰り返し繰り返し、本や翻訳を通じて同じことを伝えているんだと思う。

それは自然に私たちへのメッセージになっているし、私たちだけじゃない、日本中の子供たちに対するメッセージなんだと思うんです。

村岡美枝 自分自身の子育てを振り返ってみると、いつのまにか自分が読んだ本、読んでもらった本を子供に読ませていたと思いますね。

それに、子供に本を読んであげる時って、近い距離で、くっつく感じで読んであげるじゃないですか。だから肌感覚みたいなものというか、もうその本を全部読むことすら目的じゃないような。絵を指さしたりしながら、結局はいつも途中から居眠りしていたり、ということもあったかな(笑)。

祖母や母に読んでもらった時のことを思い出しながら、自分も同じように子供にしてあげている。それは自分の楽しみでもあり、幸せな時間でもあったんですよね。

それに、あのころはゲームとかが台頭してきた時代だったので、子供には絶対ゲームはダメ、その代わり本なら買ってあげるって言って。

子供たちが大きくなった今でもそれにつけこまれちゃって、自分のアルバイト代があるくせに、本ならいいんでしょって買わされてるけど(笑)。

村岡恵理 祖母の本は親と子供がいっしょに読める本、「縦」につながっていく本だと思うんです。

「赤毛のアン」以外でも、祖母が翻訳した本はすべて親と子がいっしょに読める本、いっしょに読んで欲しい本ばかり。そんな本を残してくれた気がします。

開け放たれていたドア

村岡美枝 わたしが接した祖母はもう67、8歳のころからだから、仕事としては晩年だったんでしょう。それでも今思うと、本当に精力的に仕事をしていたんだと思います。

アンのシリーズの翻訳は終わっていたけれど、モンゴメリの次の作品も翻訳していたし、ほかの作品も手がけていたり。

東洋英和の短大で教えていたり、様々な委員会の委員や理事をかけもちしてました。

昼間は大きなカバンと風呂敷づつみをもって、その頃は運転手さんもいて。いくつもの打ち合わせをはしごして、晩ご飯を食べた後にやれやれと、ようやく自分の書斎で書き物をしていたりしたんでしょうね。

ずっと祖母と一緒に暮らしていたわけではないですけど、遊びに行った時、書斎に入っていくとおばあちゃんも喜んでくれて、「本を読んで」と言うと本を読んでくれたり、お話を聞かせてくれたり。

私が書斎に入っていっても全然怒られないの。書斎のドアはいつも開けっ放しで。

今思うと、仕事をしている時でも、祖母がバタンと閉め切って書斎に籠ってる、という記憶は全然なくて。

今、おばあちゃまは仕事中だから入ってきちゃダメよ、というのは一切なかったですね。母に聞いた話でも、昔から生活と仕事が一緒の空間にあったようです。

書斎と応接間がつながっていて、こっちから書斎を見るとおばあちゃん、いるいる、みたいな感じで。ピリピリしたところはまったくなかった。

村岡恵理 祖母はすごく夜型だったみたいですよ。

村岡美枝 みんなが寝静まって、ようやく1人の時間になって原稿を書き始めて。けっこう深夜や明け方のラジオを聞いていたみたいです。

村岡恵理 父に聞いた話では、祖母は朝まで原稿を書いていても、8時にみんなで朝ごはんを食べる時には必ずきちんと着物を着て出てくるんですって。

朝まで起きているのは真似できても、それはちょっと真似できないですよね。明治の人はすごい。

村岡美枝 祖母の時代だと、最初から物を書く人だから家に書斎がある、というわけじゃなかったでしょう。

だから、台所で娘と一緒にいながら、その中で時間を見つけて書くとか。

若いころからそんなふうに生活と仕事をうまく切り盛りしていく姿勢ができていたんでしょうね。